空のペットボトル

読んだ本やアニメの感想。

『映画大好きポンポさん』の話。

毎週観たり読んだりしたものの感想を書くぞと意気込んでいたわけですが1度途切れたらそのまま2か月もサボってしまいました。

今回は先週公開された劇場アニメ『映画大好きポンポさん』を観て久しぶりにブログに感想を残したいと思ったので書きます。

原作の『映画大好きポンポさん』『映画大好きポンポさん2』のネタバレがあるので原作を読んでいない人はご注意を。

pompo-the-cinephile.com

 

 

『映画大好きポンポさん』が大好き

もともと『映画大好きポンポさん』をはじめとする原作のニャリウッドスタジオシリーズが大好きで、初めて『ポンポさん』を読んだ時から、『ポンポさん2』、『フランちゃん』、『カーナちゃん』、オムニバス、『ポンポさん3』と読むたびに大絶叫して楽しんでいた。

劇場版についても、『ポンポさん』の単行本が出たときにアニメ化企画を知ってからずっとワクワクしていたし、コロナで延期になってようやく公開だったのでかなり期待が高まっていました。高まりすぎてちょっとでも気に入らない箇所があったらすごいガッカリするのではないかと怖くなるほどには。

結果、期待を大きく上回るものを観ることになって大満足。

 

カットへのこだわり

「編集」が物語上大きな意味を持つだけあってこの作品におけるカットの見せ方が多種多様で映像としていて観ていて楽しい。時間経過を表すのにタイムラプスの早回しやコマ送り、バスが過ぎ去り自動ドアが開いたり、などなど挙げればキリがない。

カットの切り替わりの表現で特に好きなのは、ジーンがポンポさんの脚本を読むシーン。本のように画面が二分割されて片方にはコーヒーの入ったマグカップ、もう一方には空になったマグカップ、そのページがめくられると次にはそれぞれ時間のことなるスマホの待ち受け画面、とひとつのシーンの時間経過を表すのに多様な表現が使われていて脚本を読むだけのシーンを飽きさせずに魅せてくれる。

時間経過以外にもジーンがバスの中で外を走るナタリーを見かける時の表現が好き。ナタリーが目に入るとジーンの瞳にズームインし、瞳がカメラのレンズとなり、走る姿の水しぶきが飛ぶ様を切り取る。このシーンは映像として単純に綺麗だし、まだ雑用スタッフであるジーンの監督としての才能が仄めかされる役割も担っていて一粒で二度おいしい。

後は原作を読んでいたら当然気になるリリーが振り向くシーン。原作ではシリーズ通しておなじみとなっているクライマックスでのカラー表現。漫画だからこそできた技であり、常にフルカラーなアニメでどうやって表現するのかと思っていたらまさか直前の一瞬色をなくすことで画面の壮麗さを際立たせるとは。歌声も相まってとても映えるシーンとなった。ただ、余韻があまりなく次のシーンに映ってしまったので、この作品の一番のキメどころにしては少し物足りなくも感じてしまった。ただしこのモヤモヤは後述(「誰のための映画?」の章)で解消される。

 

ジーンの瞳は輝いていたか

スイスでの撮影後、ジーンは同級生だったアラン(オリジナルキャラクター)に声をかけられる。監督という夢を実現しているジーンを見たアランは昔言った「下ばっか向いてないで前を見ろよ」という言葉を訂正し、こう続ける。「お前はずっと前だけを見ていたんだな」「今のお前の目、輝いてるよ」(正確かどうかは記憶があやふや)

このセリフは前にあった「ジーン君が一番ダントツで目に光がなかったからよ」というポンポさんのセリフに反するように思える。果たしてジーンの目は輝いていたのか、いなかったのか。

そもそもジーンは前を見ていたのか、ジーンは現実世界から逃げ続けて映画の世界に浸ってきた男だ。そんな男が前を見ていたといえるのか。むしろジーンは下ばかり見続けていた。ポンポさん曰く「現実から逃げた人間は自分の中に自分だけの世界を作る」「社会と精神世界の広さと深さこそがその人のクリエイターとしての潜在能力の大きさ」と。ジーンは自分の世界に向かって深く深く潜り続けた。ずっと下を向いてそのまま潜るように進み続けるのならば、それは当人にとって前を向いて真っすぐ進んでいるのと同じことなのではないか。

また、劇中クライマックスで流れる挿入歌『例えば』の歌詞にはこう書かれている。

例えばその光があれば
揺れる瞳も 爪の色も あの人の手の温もりも
全部を捨ててもいい
どうでも良いんだよ

この「光」とはジーンにとっては映画だ。ジーンは深く潜った自身の精神世界において映画という光を手に入れた。そしてその代わり現実世界の全部(会話・友情・家族・生活)を捨てた。

つまり、ジーンは下を向きながらも前を向いており、その目は現実世界での光はなく、自分だけの精神世界では光り輝いていたのだ。

 

切り捨てたものに目を向けろ

ジーンと劇中劇『MEISTER』における主人公・ダルベールの両者は重なるように描かれている。

ダルベールは音楽だけのために全てを切り捨ててきた男だ。正しく楽譜通りに演奏すること、それ以外はいらない。そんな妄執に憑りつかれた男だった。だがスイスの大自然で出会った少女・リリーと過ごすうちに本当に大切なものは感情・記憶だったと思い出す。

そうした気づきの果てに得たダルベールの演奏は、聴くもの全てに自身が忘れ去った/切り捨てた感情・記憶を呼び覚ますものとなった。

ジーンにとっての映画もダルベールにとっての音楽と同様に、それを取ったら彼には何も残らないものだ。初めて編集を任されたとき、「売上とかスタッフの生活とかどうでもいい」とも言ってのけた。

しかし、監督として撮影の経験を経た結果、関わってきた人間たちや観客の期待を背負うことの重さに気付く。

それを承知したうえで彼は編集を行う。ナタリーの女優としての初めてのカットを、マーティンとの初共演のカットを、ジーン自身も切るのに躊躇ってしまうようなカットを、切り落としていく。そうした覚悟をもって切り落としていくことに意味がある。

これは、ジーンが初めて編集を行った際に説明された「フィルムの外で内容を補完する」「視聴者に次のシーンを想像させる」という編集技術の集大成である。

洗練された技術を目にしたときその過程を想像するように、抽象化された歌詞に自身の体験を重ねて共感するように、ダルベール/ジーンのアリアを聴いた者は原初の感情・記憶を取り戻す。(観客一人一人に個別の感情を救い上げる演奏、『SOUL CATCHER(S)』の神峰翔太じゃん!ってなって伊調鋭一のように感動してた)

 

最悪のアリア

人生は選択の連続だ。何かを選んだらそれ以外のものは切り捨てなければならない。

ダルベールが音楽のために、ジーンが映画のためにそれ以外を切り捨てた。

ダルベールの妻も同様に何かを選び何かを切り捨てた。

彼女はダルベールに「家族」か「音楽」かの2択を迫り、答えられないことで「音楽」がダルベールにとっての答えだと突きつけた。これは彼女がダルベールとの離婚を選んだとも言える。

彼女の「あの日弾いてくれたアリア、あれだけは最悪だった」というシーンでは、ピアノに向かって(家族に背を向けて)弾くダルベールが映され、吐き捨てるように放った言葉だった。

彼女が離婚のために「音楽に身を捧げて家族を顧みないアリア」を選び、それ以外のもう一つの「最悪なアリア」を切り捨てたのだ。

しかし、気付きを得たダルベールの演奏によって、彼女は切り捨て忘れ去ったもう一つのアリアを取り戻す。

「最悪なアリア」という同じ言葉をつぶやく彼女だが、その口調は穏やかで、そこで思い出すのは、ソファに座り(家族に向かい合って)おもちゃのピアノを不器用に弾くダルベールの姿だった。

ポンポさんは「純粋に映画に感動したことがない」と言っていたが、彼女は映画に感動したことがなかったのではなく、天才プロデューサー・ポンポさんになる過程で「映画に感動すること」を失っていたのだ。

それを、ジーンの『MEISTER』を観ることで、幼いころ祖父と映画を観て感動した経験を思い出したのだ。

そうして放つ「君の映画、大好きだぞ」の破壊力がヤバい。これは『ポンポさん2』で使われるはずだったセリフを切り捨てて選択したことで得られる威力。

 

誰のための映画? 原作から切り落とされたものに目を向ける

劇中でも劇中劇でもさんざん切り捨てたものに目を向けるということをやってきたのだから、この作品でも切り落とされたものに目を向けるべきではないか?

ということで原作から映画化にあたってカットされたシーンに目を向けよう。

にゃーにゃー鳴くミスティアさん、他人のテリトリーでご飯食べるの嫌いなミスティアさん、毎日栄養ゼリーとかサプリで済ませるミスティアさん、自分で自分の映画をプロデュースする野心家なミスティアさん、次に撮るB級映画について盛り上がるポンポさんとコルベット監督の間にいるミスティアさんがニッコリ笑うシーン……

ミスティアさんばかりだ。ミスティアさんの出番については、『MEISTER』の追加カットでの出演(映画オリジナルの展開)で、いつかジーンとナタリーと映画を作る予感がある、そしてその時は自分が主役だ、と告げるシーンで『ポンポさん2』に繋がる橋渡しでもあり、野心家であることも伺えるいいシーンがあってよかった。(「作る」と言っていることや電話先のポンポさんの後ろでフランちゃんが働いていたり、2の要素がバッチリ入っているのも良い)

ミスティアさんの描写についてはいいとして・・・

この作品では原作からとあるシーンがカットされ、そこを機にオリジナル展開が大量に入ってくるのだ。

そのシーンとは、原作最終3ページ、クランクアップ後、『MEISTER』の編集作業に取り掛かったジーンがコルベット監督の言葉を思い出すシーンだ。

「その映画を一番見てもらいたい誰かのために作ればいいんだ」

原作では、ジーンはこの言葉を思い出し、時間が一気に飛んで『MEISTER』を90分の映画に仕立てあげたことが分かるセリフでこの作品のラストを締めくくられる。

一方、映画でコルベット監督のセリフが使われたシーンがどうだったかというと、このセリフを放つ間、コルベットの横に映るポンポさんに段々とピントが合わされていくような描写になっている。

これをそのまま受け取るならポンポさんにフォーカスを絞って映画を撮る、という意味のシーンになる。原作の『MEISTER』はたしかにポンポさんのために作られた映画だ。編集時にジーンがポンポさんにフォーカスを絞っただけではない。脚本の追加も行われない。つまり、作品(劇中・劇中劇ともに)のクライマックスがリリーが振り向くシーンであり、これは「このシーンを撮るためにここまでやってきた」ポンポさんによるシーンだ。以上を踏まえると『MEISTER』はポンポさんの映画と言っていいだろう。

しかし、コルベット監督のセリフのシーンを詳しく見てみると、ピントはポンポさんに合っているが、ポンポさんはこのシーンの画面の右端に映っており、中心にはいないのだ。さらに言うと、映画では後の展開でジーンはこの言葉を思い出すことはない。

ポンポさんが中心にいない、「誰かのため~」というコルベット監督の言葉を思い出さない、それではこの映画は誰のために作られるのか?

映画でのジーンは、コルベット監督の言葉を思い出さずに編集を続け、泥沼に嵌っていく。(ここの無数に重なる「やあダルベール」「私は誰だ」のカットや壁に増えていく付箋の描写すき)

その代わり、別の人物が別の言葉でジーンに気付きを与える。ポンポさんの祖父・ペーターゼンはジーンに問いかける。「その映画に君はいるかね?」

この言葉をきっかけにジーンは自分のために、あの日の自分のために、映画に己を重ねる自分たちのような観客たちのために映画を作るのだと決意する。(ジーンとフィルムの中のダルベールやアランやジーン自身と重なっていく描写や、ジーンしかいない映画館にアランや多くの観客が集う描写が熱くて最高。水上悟志作品と同じ系統の熱さを感じる。)

映画でのポンポさんは「純粋に映画で感動したことがない」と言った。そして原作でポンポさんが自分自身が映画が大好きだと気付くのは『映画大好きポンポさん2』であり、『映画大好きポンポさん』時点ではその様子はない。それもそのはずで、『MEISTER』はポンポさんのポンポさんによるポンポさんのための映画だったのだから。

だが、映画の『MEISTER』はポンポさんの手から離れ、ジーン(複数形)の映画へと生まれ変わった。だから映画の『MEISTER』でポンポさんは「君の映画、大好きだぞ」と感動することができたのだ。

 

狂気賛歌

原作から思っていたのだが、このシリーズは労働とか人権とかの目で見ると健全ではない。制作も決まってない段階でアパートの退去やバイトの退職を強制したり、人の破産を構ったりしないし、納期守らんし……

映画のオリジナル展開でもアラン君の会議配信とかコンプラ違反だろうし、ジーンの病院抜け出して編集するムーブなど、今の世の中では褒められたものではない。

だが、それでも突き進む狂気がこの作品にはある。

アランが行った捨て身のプレゼンは見る者の心を打ち、会社を動かした。(頭取の判断がご都合主義に見えるが、よくよく考えると配信されて盛り上がった以上認めなかったら大幅な会社のイメージダウンにつながるので融資を認めるしか道がなさそう)

ダルベールは自分が切り捨てたものが大切であったことを認識した上でなお、妻にも非難された演奏(何も振り返らずただそれのみに打ち込み続けるドス黒い演奏)を突き詰め、孤独と引き換えに聴くもの全てに大切な感情を呼び覚ます演奏を手に入れる。

ジーンもダルベールと同じドス黒いオーラを纏い、全てを切り捨て映画を作った結果、いつも途中で劇場を去る女の子が夢中になるような映画を作り上げる。

劇中でもオマージュがある『タクシードライバー』はジーンの好きな映画、『セッション』はポンポさんの好きな映画として挙げられている作品だ。これらの作品も狂気の果てに一人の女の子が救われたり、素晴らしい演奏が生まれる、といった内容の作品である。

アランのような人間が社会で働く者の、ジーンやダルベールのような人間が創作活動のスタンダードであっていいとは思わない。そうであれと言ってくる人間は非難されるべきだとも思う。けれどそうした狂気の果てに生み出されるものは素晴らしいものであってほしいという祈りや期待がある。

 

『映画大好きポンポさん』を観よう、読もう

ここまであらすじなんだか感想なんだか考察なんだかポエムなんだかよくわからないことを書いてきたが、要するに私は『映画大好きポンポさん』が大好きだ。

この映画や原作漫画を観た人の感想を知りたいし、『ポンポさん2』『フランちゃん』『カーナちゃん』『ポンポさん3』の話もしたいし聞きたい。だからみんなに買って読んでほしい。

当然劇場アニメ『映画大好きポンポさん』の続編だって観たい。だからみんなに映画館に行ってほしい。

ニャリウッドスタジオシリーズにハマり、登場人物たちの好きな映画を観て個性豊かなキャラクター達の解像度を上げていこう。

現在、『ポンポさん』~『カーナちゃん』までの電子書籍が半額になっているので、買おう。